浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

「自助・共助・公助」 - それは違うでしょう

香取照幸『教養としての社会保障』(15)

菅義偉首相は、就任記者会見(2020/9/16)の最後のほうで、次のように述べていた。

私が目指す社会像、それは、自助・共助・公助、そして絆であります。まずは自分でやってみる。そして家族、地域でお互いに助け合う。その上で政府がセーフティネットでお守りをする。

「自助」をトップに持ってくることは、社会保障(助け合い)を削減することになるように思われる。

「自助・共助・公助」については、以前、次の記事で考えてみた。 

shoyo3.hatenablog.com

 

今回は、本書を読むのではなく、里見賢治の<厚生労働省の「自助・共助・公助」の特異な新解釈-問われる研究者の理論的・政策的感度->という論文を読んでみよう。

  • 21世紀初頭までの自助・共助・公助論は、「公助」を社会保障とし、「共助」を地域社会等の領域とする理解で一貫していた。
  • こうした自助・共助・公助の伝統的な理解が一転するのは、内閣官房長官の私的懇談会である「社会保障の在り方に関する懇談会」の報告「今後の社会保障の在り方について」(2006年 5 月26 日)であった。
  • 同懇談会の議論は、2004年7月以来、経済財政諮問会議の議論とタイアップして進められたように、評判の悪い小泉純一郎内閣の「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2006」の理論的裏打ちとなる性格を持っていた。
  • 同報告は、「社会保障の基本的考え方」として、「我が国の福祉社会は、自助、共助、公助の適切な組み合わせによって形づくられるべきもの」と述べている。
  1. 自ら働いて自らの生活を支え、自らの健康は自ら維持するという『自助』を基本とする。
  2. これを生活のリスクを相互に分散する『共助』が補完する。(社会保険方式を基本とする)
  3. その上で、自助や共助では対応できない困窮などの状況に対し、所得や生活水準・家庭状況などの受給要件を定めた上で、必要な生活保障を行う公的扶助や社会福祉などを『公助』として位置づける。
  • ここに、「共助=社会保険」とし、「困窮などの状況」に対する救貧的な「公的扶助や社会福祉などを『公助』」 とする特異な共助・公助論が成立した
  • 2008年版『厚生労働白書』になると、「公助」が救貧施策であることをさらに明確にして、「困窮などの状況に対し、所得や生活水準・家庭状況などの受給要件を定めた上で必要な生活保障を行うのが『公助』であり、公的扶助(生活保護)や社会福祉などがこれに当たる」とはっきり述べている。
  • 以上にみた「懇談会報告」に始まる社会保障の特異な再定義は、第一に、社会保障を共助と公助に分解して定義し、社会保障の大部分を公助(公的責任)から分離して共助(連帯や国民の助け合い)とするとともに、第二に、公助(とくに社会福祉)を「困窮などの状況」に対応する選別的・救貧的施策と定義するものである。

「公助」が救貧施策であるということに関して、「恤救規則」(じゅっきゅう)の解説を見よう。

1874年(明治7)に制定された恤救規則は、その前文で救済は本来人民相互の情誼(じょうぎ)によって行うべきものであるとされ、それが適わない、労働能力を欠き且つ無告の窮民であることを条件として国家が救済を行うことを規定したものである。…前近代以来の支配者による慈恵的救済を継承し、極めて制限主義的な内容である。(日本大百科全書

「自助」論者にとっては、生活保護法(公助)は、その精神(運用)において「恤救規則」と同様とみなされているのではなかろうか。救済は、反乱防止(治安維持)の目的があろう。

 

日本のおかしさ映す「東京貧困女子」の問いかけ-幸せな青春を送った世代は現実に気づいてない https://toyokeizai.net/articles/-/278638

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次に、「共助=社会保険」をどう考えるべきか。

  • 社会保険方式は、公費負担方式(税方式)に比べると、私保険と同様に拠出(保険料)の見返りとして保険給付を求めるもので、その意味では私保険と同様のリスクの共同化(共助的側面)があることは事実である。しかし、そこから社会保険を共助と媛小化して位置づけることはできない
  • なぜなら、社会保険は連帯を基礎としながらも単にそれに留まるものではなく、任意加入の私保険とは異なり、強制加入の社会的制度として国家によって公的に制度化されているからである。社会保険への国庫負担をはじめとする公費投入もそれを根拠に制度化されているのであり、自助・共助・公助という分類をするとすれば、明らかに社会保険は公助に分類されるものである。

私は、「共助=社会保険」と思っていたが、「社会保険を共助と媛小化して位置づけることはできない」とは、どういう意味か。里見は、社会保険は「強制加入の国家の制度」であるから、「公助」に分類されると言う。私保険は、任意加入で特定メンバーだけの保険であるが、社会保険が強制加入で全メンバーの保険であるなら、確かに「公助」と言っても良さそうだ。

  • 社会保険は公助ではあるが、公費負担方式に比べると共助的色彩が強いものと解される。

公費負担というのは、財源を「税」とするものである。それに対し、社会保険の財源は「保険料」である。

メンバーと財源、これが「共助」と「公助」を区分するもののようである。

国民健康保険に関しては、「保険料」方式と「保険税」方式がある。どちらを採用するかは保険者の選択である。(実態としては、市町村保険者の大多数が「保険税」を採用しているらしい)。「保険料」と言えば「共助」、「保険税」と言えば「公助」のイメージである。

税と保険料については、別途詳しく検討したい。

  • 「共助=社会保険」とするのは、社会保障のほとんどを公助ではなく共助とするものであり、社会保障を公的責任ではなく、国民相互の連帯・助け合いに媛小化するとともに、ひいては福祉の保険化さえ内包するものであって、社会保障への公的責任を緩める意図を含んでいる

里見のこの指摘は重要な論点だろう。「福祉の保険化」、「社会保障の公的責任」、これはよく考えてみなければならない。福祉の保険化(→民間保険化)、公助→共助→自助への流れ。これが望ましいことなのかどうか。

  • 第二に問題なのは2008年版『厚生労働白書』が典型的であるように、「困窮などの状況に対し」生活保障を行うのが「公助」であるとし、「公助」を選別的・救貧的施策と定義して、生活保護と並んで社会福祉をそれに当たるとしたことである。
  • 児童・障害・老人・母子福祉などの社会福祉は、日本の現実では今なお選別的・救貧的様相を色濃く残しているとはいえ、その戦後の過程で、とくに1980年代以降、所得等の選別的な要件をなくし、ニ-ズの有無を要件とする普遍的な制度への脱皮を図りつつあったはずである。その結果、とくに障害者施策については、国際障害者年や障害者権利条約の影響もあって、厚生労働省障害部局自身が、徐々に普遍主義型の制度化を進めてきた。にもかかわらずこうした動きを否定して、障害者福祉を含めて社会福祉を一括して選別的・救貧的制度と定義することになったのであり、厚生労働行政自体の自己否定に等しいと言えよう。
  • こうした特異な解釈が出てくるのは、社会保障を自助の補完に留めたい新自由主義の志向に根本的な原因がある。
  • 社会保障は初期の「自助の補完としての社会保障」の段階から、歴史的に次第に 「自助の前提条件としての社会保障」に進化しつつある。

貧困があるとき、「救貧」(生活保護)で済ますのではなく、なぜ貧困が生じるのか? に切りこまなければならない。社会保障論がその問題意識を持たなければ、単なる技術論にとどまるだろう。