浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

ブンバ ボンボンボ ブンバ ボーン! ハッ!!

ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか』(4)

今回は、第2章 哲学のあらまし である。

  • 存在の謎の核心は、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いに尽きる。
  • この問いに答えようと努めることは、「人間の知性のとりわけ壮大な企て」である。(アーサー・ラヴジョイ)
  • この謎を意に介さないのは、知的障害の症状と言っていい。
  • 人の知的能力が低ければ低いほど、存在そのものは、その人にとってさして不可解でも、謎めいたものでもなくなる。(ショーペンハウアー
  • 「なぜ世界が存在するのか?」という問いは、概念的には「なぜ私は存在するのか?」という問いと呼応する。
  • 近代以前の文化にはそれぞれ、宇宙の起源を説明する創世神話があったが、そのような神話がまったくの無から始まることは決してない。必ず何らかの根源的な存在ないし物質が前提とされた。
  • 太陽や星、陸地、海、四足獣、魚、人間など、宇宙に含まれるすべてのものは、胸のむかつきを覚えたブンバという存在の口から文字どおり吐き出された。(バンツー族の創世神話

ブンバ・ボーン!

www.youtube.com

 

  • ギリシャ人たちは、「なぜまったく何もないのではなく、世界が存在するのか」という問いは、ついぞ提起しなかった。彼らの宇宙進化論には必ず何らかの出発材料が含まれており、それは多くの場合、かなり混沌*1としたものだった。この原始的な混乱状態に秩序がもたらされたときに、自然界が存在するようになったと彼らは考えていた。
  • そのようにして、「混沌(カオス、Chaos)」は「宇宙(コスモス、Cosmos)」になった。*2
  • ギリシャ人たちは、こうした原始のものがどこから来たのかについては、あまり気にしなかった。それは何であれ、無でないのは確かだった。無という概念そのものが、ギリシャ人には無縁のものだった。

神学にとっては、これはまずい。なぜなら「神が世界を創造するために、何らかの素材を必要とした」ということであれば、神の創造力は無限ではなく、限りがあることになるからである。そこで、

  • 紀元2,3世紀頃に、教会の聖職者たちは斬新な宇宙進化論を提示した。世界はその源となる既存の材料無しに、創造主たる神の言葉だけで呼び出されて存在するようになった、と彼らは宣言したのである。
  • こうした「無から(エクス・ニヒロ、ex nihilo)」の創造という教義は、後にイスラム神学の一部となり、神の存在に関する議論に現れる。それはユダヤ教の思想にも入り込んだ。

 

無からの創造(Creatio ex nihilo)

神が「無から」世界を創造したという主張がなされたからといって、無が神と同等の対象に格上げされたのではない。神が何かから世界を創造したのではないということが言われただけだ。キリスト教神学者のなかでも、特にトマス・アクィナスはそのように主張した。

それでも、「無から」の創造という教義は、無という考えを純然たる存在論的可能性として認めるものだった、とは言えるようである。その教義によって、なぜまったく何もないのではなく、世界が存在するのかと問うことが、概念上は可能になったのだ

Hmm、「存在論的可能性」か。「無」を「存在論的可能性」として認める、ということは、「無」を「神」と同等の対象に格上げするものではないか。

 

混沌と混沌の間の混沌/神谷操

f:id:shoyo3:20210719222140j:plain

https://bokete.jp/odai/4540678

*1:荘子」の「混沌」の話は面白いので、いずれとりあげよう。

*2: 

(1)Cosmos(宇宙)とCosmetic(化粧品)の語源は、ギリシャ語で「装飾」や「整理」を意味する同じ言葉である(本書)。…化粧とは、カオス(ぐちゃぐちゃ)をコスモス(整理整頓)にするものらしい。「化ける」という意味だけではない。

(2)カオスモス(chaosmos)という概念がある。言葉だけは聞いたことがあるがその内容を知らないので、いずれとりあげよう。

(3)ブンバ・ボーン!(作詞:谷口國博)の意味は分からなかったが、「混沌(カオス)」から「宇宙(コスモス)」へ、を示唆しているとも受け取れる。