浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

Zをプログラムと呼ぶ観測者

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(34)

今回は、第4章 機械としての生命 第3節 自己増殖する機械 である。

これまでに、

  • 遺伝子が外的に観察可能な形質の情報を担っていると考えるのは。外在的視点からの読み込みである。
  • 遺伝子からタンパク質への翻訳かその修飾までについては「情報伝達」として理解できる。

と述べられていた。

山口は本節で、「情報伝達として理解するのが妥当な化学反応系とは、どのように振る舞う化学反応系なのか」という問題を考えている。

ところで、化学反応って何? 昔々、何か習ったような…。全く覚えていないので、コトバンクから、知恵蔵の説明を聞いてみよう。

物質がそれ自身、あるいは他の物質と相互に原子、原子団の組み換えを行い、新たな物質を生成する変化。化学変化ともいうが、特に反応の過程を重視するときに化学反応と呼ぶ。反応し合う物質を反応物、反応によって生じる物質を生成物という。化学反応を表現するには化学反応式を用いる。反応物の化学式を左辺に、生成物の化学式を右辺に書き、反応物と生成物の物質量の比を化学式の前の数値(化学量論係数)で書き表して、両辺を右向きの矢印、または等号で結ぶ。…(市村禎二郎、知恵蔵)

例えば、エタノールの完全燃焼は、次の化学反応式で表される*1

 C2H5OH+3O2→2CO2+3H2O

山口は化学反応系を次のように説明している。

細胞内では常にDNA分子から多数のRNA分子が合成されており、そこからさらにタンパク質分子が合成されている。そしてタンパク質分子は、脂質や糖など様々な分子の合成や分解に携わる。これらを単に化学物質としてみると、細胞内では様々な分子がお互いの化学反応(合成や分解)を触媒しあっているということである。そして、細胞周期1回の間に(つまり細胞分裂によって新たな細胞が産まれてからその細胞がまた分裂するまでの間に)RNA分子やタンパク質分子などは何度も合成され、分解されていくのだが、DNA分子だけは1回しか合成されない。

この化学反応系において、DNA分子が注目される。

こうした化学反応系において、この1回しか合成されない、しかも細胞内に数個から数十個しかない希少な分子であるDNAは、直接間接に細胞内での化学反応の多くに関与することになる。そうした分子が変質すると細胞内の様々な化学反応の進行が狂ってしまうために、DNA分子は変質しないように保存されていく。こうしたDNA分子の振る舞いを観察すると、「遺伝情報を担っている」かのように見える、ということである。

DNA分子は、「遺伝情報を担っている」と断言せず、「~かのように見える」と言っている。この遺伝情報とは「外的に観察可能な形質の情報」のことか。「遺伝子からタンパク質への翻訳かその修飾まで」の情報のことなのか。

しかし、なぜ我々が細胞内の化学反応系を「情報伝達」として理解してしまうのかという点については必ずしもはっきりしない。…我々は、細胞内の一連の化学反応を単に物理化学的な因果関係のみによって記述するだけでは満足せず、それを「情報機械」と解釈することではじめて、「理解した」という実感を持つことができる。ここでも、カンギレムの機械論の二義性についての議論が有効なようである。

前節で次のような説明があった。

我々は、単なる物質的な因果関係の系列(「異様なメカニズム」)を、機械と類比させることではじめて、ある目的のために構成されたひとまとまりのシステムをなす全体(「一つのメカニズム」)として理解することができる。(p.179)

カンギレムは、生物に対する機械論的説明が目的論を排除するのは見せかけに過ぎず、実は目的論を前提としていると主張する。(p.180)

化学反応は、(エタノールの燃焼のような)「単なる物質的な因果関係の系列」ではないのか。これを「情報」機械と類比させることによって、目的論を密輸入しているのではないか。つまり、生命とは「離合集散する物質の因果関係の系列」ではないのか。これはナンセンスな問いだろうか。

我々は、生命を機械として理解せずにはいられないようだ。しかし、「理解する」ときに、我々は一体何をしているのか? 対象を単に記述するのではなく、「理解する」とはどのようなことなのか?

離合集散する物質過程が循環をなしているとき、その循環の中で存在し続ける物質Zが存在するなら、そうした過程において「物質間に認められるのは、おしなべて定量化可能な崩壊速度、寿命のみである。しかし、この状況において、我々は、Zをプログラムと考えるのではないか?」(郡司ペギオ幸夫『内部観測』、p173)。この「プログラム」という理解の導入には、観察者の側がなす、ある種の飛躍が必要である。

 

ORG/上村可織

https://www.tamabi.ac.jp/pro/g_works/2013/op/s4/

 

以下、郡司の言葉が引用されているが、これがなかなか難しい。ここでは、仮に、「プログラム」を「神の意図」(人間が勝手に定めた目的)と理解しておこう。

プログラム概念を導入した途端、DNAとタンパク質の間には、プログラムとプログラムが操作・生成するデータといった論理的ステータスの違いが出現してしまう。(郡司、p169)

片やプログラム概念もたかだか安定性の高い単なる物質に過ぎない。片や、Zをプログラムと一度言おうものなら、そこに、プログラムとその翻訳表現といった、動かしがたい論理的ステータスの差異が現れる。安定性の高い物質Zの出現、これ自体は、プログラムではない。プログラムは、Zをプログラムと呼ぶ観測者抜きにして決して現れ得ない。……我々はZの一部と観察された循環する物質の反応の、個別な対応関係を見、これが一般化できるとの信念において言語やプログラムを見出すのである。(郡司、p176-177)

物質Zをプログラムと呼ぶのは「観測者」(人間)である。

このように郡司は、個別的な現象において一般性を見いだすという点に「理解」というものの成立のポイントを見ている。こうした一般性への飛躍を孕んだ仕方でのモデルの構成は、[観察者の観測過程を含んだ形式で物質の相互作用を構成すること」であり、「疑似的解決」に過ぎないが、「<単なる安定性の高い物質>が我々において<プログラム>を含意するそのステータスを、Zにおいてのみ構成できることで、我々は、プログラムの起源に関する含意を、単なる絵合わせとしてではなく、構成できるのである」(郡司、p178)

こういう文章を読むと、「意識」はどういう位置づけにあるのか、と思ってしまう。

要するに、ある分子を「プログラム」として理解すること(あるいは生命を「情報機械」として理解すること)は、生命を構成する化学反応系を理解するために観察者の側が設定する「疑似的解決」だということである。そうした理解枠組みの設定は一つの飛躍として、あるいは創造としてなされるのだ。ただし、そうした枠組みは「単なる絵合わせ」というわけではない。

しかし、この「単なる絵合わせ」ではないということは、具体的にはどういうことなのだろうか。理解枠組は人間が設定するものでありながら、それが「単なる絵合わせではない」とも言えるということは、生命を生命自身に即して捉えることができるか否かを考えるうえで重要な論点である。

以下では、この問題について考える。

ここまでの暫定的結論は、「生命を情報機械として理解することは、生命を構成する化学反応系を理解するために観察者の側が設定する疑似的解決である」ということになろうか。