浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

挫折した絶対主義者

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(6)

今回も、第1章 正義論は可能か 第4節 相対主義 の続き(p.17~)である。

井上は、「相対主義者を自認することは、「開明的」な自己イメージを提供してくれるため、現代日本においてはなお支配的な知的ファッションである」と述べていた。(価値観の多様性を認める!)

価値相対主義の論拠は何だろうか? 井上は、①確証不可能性、②方法二元論、③非認識説 の3つをあげていた。前回は①をみたので、今回は②の方法二元論である。

 

  • 方法二元論*1は通常、事実と価値の峻別、存在(である)と当為(べし)の峻別といった標語で定式化されている。
  • 方法二元論の論理的核心は、「存在判断(事実判断)のみから成る前提から、当為判断(価値判断)を論理的に演繹できない」というテーゼにある。

方法二元論という言葉は初めて知ったが、「~である」(事実、存在)から「~べきである」(価値、当為)は導けない、という話は何度も聞いたことがある。確かにそうなのだが、私たちはよく「~である」から「~べきである」を導く。例えば、最近の事例で言えば、コロナ陽性者が再び増加しているという事実から、大規模イベントの参加人数制限を9月末まで再延長すべきである、といった具合である。

 

このような方法二元論を認めるとどうなるか。価値判断A(~べきである)は、事実判断(~である)から導けないのだから、価値判断Aを正当化しようとする者は、それを他の価値判断Bから導かなければならない。同様に、価値判断Bは、価値判断Cから導かなければならず、無限後退(無限遡行)に陥る。そうならないためには、何らかの価値判断を究極の原理(公理、正当化の対象外)として措定しなければならない。

  • しかるに様々な世界観が対立・拮抗している人間世界の現実を見れば明らかなように、このような究極原理は複数存在する。それらはいずれも正当化されていない以上、いずれを選ぶかは純粋に主観的・恣意的な問題である。

究極原理が複数存在するということは、価値観(世界観)が多様であることと同義である。

  • この議論は一見、世界観の複数性という誰も否定しない現実認識の介入を別とすると、方法二元論さえ承認すれば、論理必然的に価値相対主義が帰結することを証示しているように見える。

方法二元論を認めれば、複数の究極原理が措定される、つまりは価値相対主義が帰結する。だから、価値相対主義を批判する者は、方法二元論を批判の対象にしてきたという。

「世界観の複数性という誰も否定しない現実認識の介入を別とすると…」とはどういう意味か。世界観の複数性=価値観の多様性は、現実に観察される。「別とすると」とは、その現実認識の話は置いといて、論理の話をすればという意味だろうか。

 

続いて、井上は次のように言う。

  • 方法二元論と価値相対主義の間には本来論理必然的な結びつきはない。従って、問題のこの議論には、方法二元論以外にも重要な哲学的前提が介在している。
  • 次の2つである。(1) ある判断(命題)が正当化されるのは、それが自己正当化的であるか、または他の正当化された判断(命題)から論理的に演繹されるときであり、かつそのときに限る(遡行的正当化理論)。(2) 自己正当化的な価値判断は存在しない。(反直証主義

井上は、(1)(2)について、ややこしい言い回しをしているが、要は、①反直証主義が成り立たなければ、自己正当化的な価値判断が存在する。②遡行的正当化理論が成り立たなければ、ある判断(命題)は正当化される。と言っているようである。

 

  • 要するに、方法二元論・遡行的正当化理論・反直証主義という3要素のうち、どれが論破されたとしても方法二元論[「~である」(事実、存在)から「~べきである」(価値、当為)は導けない]からの議論は挫折することになる。それでは、この議論[価値相対主義]を批判しようとする者はこれら3要素のうちどれを問題にすべきなのか。
  • 既述のように、従来の相対主義批判においては方法二元論に対する批判が支配的である。確かに、方法二元論の検討はそれ自体としては哲学的に極めて重要な課題である。この問題の考察においては単に、価値判断や規範の論理的性格の問題だけでなく、論理そのものの本性の問題、人間の言語と行動との関係の問題、価値の人間学的基礎の問題など、多くの根本的な問題が相互に複雑に絡み合いながら関わってくるだろう。それだけにまた、それは「難しい」問題であって、それぞれの立場がそれなりの説得力と難点とを分かち合っている。

この議論は興味深いが、別途、他の書物で考えることにしよう。

 

  • しかし、かかる重要性にも拘らず、「方法二元論からの議論」に対する批判の文脈では、これを主要問題として扱う必要はない。なぜなら、一元論[事実言明から当為言明を演繹できる]の立場に立たない限りこの議論[方法二元論]に反対できないわけではないし、一元論の立場を説得的に理由付けられない限り、この議論を効果的に論破できないわけでもない。この困難な問題はオープン[未解決]にしたまま、もう少し「安易」な、しかしある意味では一層根本的な仕方でこの議論を論駁できるのである。
  • 反直証主義は承認して良い。共有された直観に、「理由」として実践的推論に参与する権利を承認することと、何らかの直観を確実・不可謬な「根拠」の地位に祭り上げることとは同じではない。

 

井上は、方法二元論からの議論の明白な誤謬は、方法二元論そのものよりも、遡行的正当化理論にある、と言う。

  • 遡行的正当化理論は、「あらゆる判断は、自己正当化可能な判断から論理的に演繹されるとき、かつそのときにのみ正当化される」という定式と同値である。ここに表現されているのはデカルト主義に他ならない。即ち、確実・不可謬な知のみが信頼に値するという思想の典型である。

なるほど、デカルト主義か。

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https://www.youtube.com/watch?v=eMeKB0RVBJM

 

  • 遡行的正当化理論は先に見た確証可能性テーゼの精神的双生児であり、後者と同じ根本的な欠陥を共有している。

確証可能性テーゼとは、「与えられたある判断の真理性を確証する手続・方法が少なくとも原理上与えられていないならば、その判断は客観的に真ではあり得ない」というテーゼであった(前回記事参照)。

  • 第1に、この確実性の要求は人を独断と破壊的懐疑との間で振動させ続ける価値相対主義が方法二元論によって自己の立場を正当化するときに、このデカルト主義的正当化理論を、言及するまでもない自明の前提としていたということほど、相対主義に対する「挫折した絶対主義者」という性格付けの的確さを証明するものはない
  • 第2に、自己論駁性の刻印は遡行的正当化理論の上にもあきらかである。この理論そのものを何らかの自己正当化的命題から論理的に演繹するのは不可能であるがゆえに、この理論は自己自身に正当化不可能性を宣告せざるを得ない

太字にした部分、特に赤字にした部分は、実に知的で巧みな言い回しである。